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ブログ - 正受は不受

正受は不受

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
nagoyazen 2019/10/8 21:10

 

竹影掃階塵不動

 (竹影(ちくえい) (かい)()いて (ちり)(うご)かず)
  月穿潭底水無痕

 ((つき) 潭底(たんてい)穿(うが)って (みず)(あと)())

 

nyddy omより

 

「竹影 階を掃いて 塵動かず、月 潭底を穿って 水に痕無し」というこの対句は、禅語のなかでも比較的によく知られているもので、その一通りの意味は、風に吹かれて竹が揺れ、その揺れる影があたかも階廊(かいろう)をしきりに掃いているように見える。しかし、もとより影であるから、階廊の塵は少しも動かない。皓々(こうこう)たる中天の月が碧潭(へきたん)にくっきりと映り、あたかもその底まで穿っているように見える。しかし夜が明けてみると、水には月の痕は少しも残っていない。ということである。しかし、禅家(ぜんけ)ではこれを何のたとえとみ、それにどういう宗旨を託してこれを珍重するのであろうか。

五燈(ごとう)会元(えげん)』の巻十六に、法を善本(ぜんぽん)大通(だいつう)()ぎ潭州の雲峰寺に住した志璿(しせん)祖燈(そとう)という僧の伝記が収められているが、それに志璿がある時の上堂(じょうどう)で「声色(しょうしき)頭上(とうじょう)睡眠(すいめん)し、虎狼群(ころうぐん)()安禅(あんぜん)し、荊棘(けいきょく)林内(りんない)に身を(ひるがえ)し、雪刃(せつじん)叢中(そうちゅう)遊戯(ゆげ)するも、竹影階を掃いて塵動かず、月潭底を穿って水に痕無し」と説法したと出ている。

この説法の大意は、

いやしくも真の大禅者というものは、誘惑の多い俗世間の真只中(まっただなか)にあって少しもそれに惑わされず悠々と眠り、恐ろしい虎や狼の群れの中にあって、少しもそれに恐れず泰然と坐禅し、進退の自由をしばるジャングルの中で、少しもそれにとらわれず自由に行動し(思慮分別・理窟(りくつ)道理にしばられないこと)、また氷のような(やいば)の林立するところ、すなわち生命の危険な場に臨んで、しかも園林(えんりん)に遊ぶというように行動し、環境に左右されず行動できるのでなければならない。人はともすると環境の諸条件によって動かされ、本心を見失いがちなものである。しかし真の禅者というものは外界(がいかい)の刺激をすなおに受け、正しくこれに反応しながら(正受(しょうじゅ))、しかもそれによって少しも本心を動かされないことは(不受)、たとえていえば「竹影 階を掃いて塵動かず」というようであれねばならない。また人は美しいものを見るといつまでも忘れかねて、それにこだわり、不愉快なことがあると(あと)あとまで不愉快な気持が尾をひくというように、とかく執着し痕跡(こんせき)をのこしがちなものである。しかし、これまた大禅者の生き方ではない。いやしくも禅者は、外界の刺激や諸条件を正受しながら、しかもその刺激が消え条件が去ったら、あとに痕跡をとどめないこと(不受)、まさに「月 潭底を穿って水に痕無し」というようでなければならない。

ということである。
 

 
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