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ブログ - 禅語  無心

禅語  無心

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
nagoyazen 2019/8/19 11:56

         無心(むしん)

「無心」にはいろいろな意味があります。無遠慮に、あつかましく強引に他人に金品をねだることをいう場合もあるし、何も考えずにポカーンとした心の空白な状態、一種の恍惚の状態をさしていう場合もあります。また、西行法師の 「心無き身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮」という歌の場合のように、粗野で、もののあわれを解しない心という意味に用いられることもあります。しかし、禅語としての無心はむろんこれらの意味ではありません。およそ心がはたらいているということは、生きている証拠であり、人間生きている限り、心は絶えずはたらいているものであります。それなのに「心の働きが無い」という文字のこの「無心」
の二字を珍重するのは、なぜでしょうか。禅でいうところの「無心」とは、どういう意味でしょうか。といって、それにもいくつかの側面があります。

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中国浙江省杭州市飛来峰石窟造像群の布袋和尚
 第一は五欲煩悩に基づく賤劣な邪念・邪心のないことであり、第二は思慮分別に基づいて、こざかしくあれこれと造作する心のないことであります。心はたしかに絶えずはたらいています。しかし、その心を満たしているのは正念・正想だけである、ということであります。しかも、この上にさらに一段高い第三の意味があります。
修行に修行を積み、練磨に練磨を重ねた結果、心のはたらきがいつか大自然のはたらきと同じようになり、あたかも赤ん坊のように、文字どおりに無邪気で天真爛漫になることであります。これが「無心」の真意であります。そしてこの真の「無心」の境涯を人格化したもの、それが布袋和尚なのであります。この布袋和尚の境涯、真の「無心」の境涯に到達すること、それが禅の人間形成の目標でありますが、それはまた、茶道はもとより、剣道・書道など、いやしくも「道」と自負するあらゆる芸道の目標であるべきであると思います。「無心」の二字、どうぞ深く味わっていただきたいと思います。 (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 上巻より) 


 
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