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ブログ - 亀鑑・きかん(両忘庵釈宗活老師)(二)

亀鑑・きかん(両忘庵釈宗活老師)(二)

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
nagoyazen 2018/9/1 11:48
亀鑑・きかん(両忘庵釈宗活老師)

  • ③ 諸大徳 参禅を要すや、須らく放下着すべし。

箇の何をか放下せん? 箇の四大五蘊を放下し、無量劫来の業識を放下し、自己脚踉下に向かって推し窮め看よ。
これ何の道理ぞと。
 

 

三段目は修行というものの進め方の基本を説明しているのです。
修行者よ、参禅が何よりも肝心であるよ!その為には全てのものを捨てなければ成らないよ!と。(参禅を要すや、の「や」は、疑問ではなく強調の助詞)
そして、何を捨てるのか?四大五蘊を捨て、無量劫来の業識を捨て、自分の足元に向かって究め看よ、と。
この看よ!が、着目すべき点であり、「見よ」ではいけないのです。
「看る」とは、相対的に公案を考えるのではなく三昧になって公案と一体になれと云うことです。これ何の道理ぞ?も、考えるのではなくあくまで次に出てくる工夫を示しているのです。
四大というのは地水火風という肉体を構成する要素、五蘊とは五蘊階空の五蘊、色受想行識であり、四大五蘊で人間を指している。
つまり、肉体的精神的働きを一時棚上げにして、自分自身を対象化せず、自分自身の存在の根底を内に向かって探せ、ということなのです。
それは一体どういうものかと。
しかも考えるのではなくて三昧になって究めろ、と。
 

④ 功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし。精神を奮起し、片時も放遅すること莫れ。無理会の処に向かって究め来たり究め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん。

 
 

4段目は、修行のやり方工夫の仕方、修行するときの精神の持ち様を示し、このやり方に従えば必ず見性することがでると云っています。
【功夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし】と、両忘老師が声を大にして叫ばれているのです。公案の功夫(工夫)は、頭に火が付いたとき思わず何はさておいても急いで消すように徹底して実行するように工夫せよ!と。
そしてあらゆるものに優先して精神を集中し、片時も放置するなと。(これは日常の数息観においても同じで、頭燃を救うがごとくでないと数息観は深まりません。)
【無理会の処に向かって究め来たり究め去り、究め究めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照らさん】公案工夫の仕方であってまことにその通りであり、実に的確な表現です。
これが先ほど云ったことですが、相対樹ではなく絶対樹で工夫することを言っているのです。
頭頂葉(いわゆる頭)で考えるのではなく前頭葉を活性にして、すなわち三昧になって精神を奮起して全精神を集中して究め求めるのです。
これが禅の工夫の要点です。
【無理会の処】つまり知性的には理解できないところが公案の工夫の場です。無理会の処に向かって三昧になっていく。
「本来の面目とは何か何か何か・・・・」これを、頭燃を救うが如く急切にやれと。それをずーーっと続けて続けて続けていく。
そうすると自然に機に触れて、【即ち心華発明して十方刹を照らさん】となる。心華発明とは、心の華が開くということ、見性するということです。
十方刹とは、あらゆる方向ということです。
つまり、見性がいけて自己の絶対性が分かるということです。
公案【無理会の処】にずーっとずーーっと迫っていけば、必ずそういう時期が来る。
見性すると云うことも今自分はどの程度なのかも考えてはいけない。
あらゆる念慮を捨て去る。
その集中を切らさない。
そこが難しく最も重要なところです。
公案の工夫は公案三昧にひたすら浸るということです。
三昧に浸る時間が必要です。
だから摂心会というものがあって、日常の生活から遮断された時間に身を置くことができる。
参禅の時だけ道場に来てでの修行ばかりでは、禅学は進んでも人間形成は進みません。
摂心会期間中は道場に寝泊まりして就寝前後も三昧に浸る時間を持つことが大切なのです。
 

  ⑤ 謂つべし、これを心に得、これを手に応ずれば、便ち能く大地を変じて黄金となし、長河を撹して酥酪となすと。豈平生を暢快にせざらんや。

 
5段目は修行した結果 開ける世界を表しています。
その開けた世界というものは、このような世界なのであると。 
もしこれを得ることができたなら、見性すれば世の中が一変する。
それはあらゆる大地がすべて、最高の価値のある黄金になってしまうようなものだ。
あの揚子江のような大きな川をちょっと掻き回すと、見たこともない食べたこともないおいしいチーズのような乳製品になってしまうようなものである。これはたとえであって、そのような精神の革命が起こる、ということを言っているのです。
つまり、本当の見性がいけて、それを日常に使うことができれば、精神的な革命が起こったように、日常生活が愕然と変わるのです。
本当の個性が生き生きと出てくるし、どんな社会的な場にいても自信に満ちた生活をすることができ、正しく楽しく仲の良い日送りをすることができるようになる。
 禅というものはあらゆる精神的な悩みを根本的に解決するものです。
ぼんやりした不安を解消するなんてことに留まらず、どんな絶望的な状態でも自分の持てる力を最大限に発揮して、世のため人のために力になることができる。
公案を手がかりにして正脈の師家に参禅し続ければ誰でも禅の真理に到達することができる。
見性すれば素晴らしい世界が開ける。
しかし一端の見性ではだめで、更に深めていかなくてはならない。
3年、5年、10年、30年、死ぬまで。
修行を続けておれば90才になっても100才になっても人間形成の向上は必ず進み深まるのです。
死ぬまで向上し続けるのが、正常な人間の生き様なのであり、本当に人生を楽しく味わうということができるのです。
本文から外れますが、1日1炷香の重要性について付言しておきます。
われわれは専門僧堂で生活しているわけではない。
摂心会がない時は、自分の日常生活の中で工夫をしなければならない。
毎日意欲を持って数息観の質を向上していかなければならない。
修行向上のために有効なのが数息観評点記録です。

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