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ブログ - 光秀出自、死後、諸説ありーうしろの正面は?

光秀出自、死後、諸説ありーうしろの正面は?

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
nagoyazen 2018/7/21 16:44

通説では、明智光秀は主人信長の夢を本能寺でうち砕き、一応の目的を果たしたものの細川藤孝らを味方に予定していた武将に裏切られ、加えて秀吉軍の反撃にあって敗走する事になった。

陣を立て直すため坂本城へ向かう途中、1582年6月13日小栗栖(京都宇治市)の竹藪を通過中落人狩りの土民に竹やりで刺されて落命したとあり、これが光秀最後の定説となっています。

しかし、山県市西洞地区(旧美山)での言い伝えによると、光秀は75歳まで生き延びたことになっています。

また、光秀が徳川の世になってからも生きていたとの説(「南光坊天海」説)は他にもあるようで、歴史好きの人にとってはとても興味のあるところです。

光秀天海説の真相が童謡「かごめかごめ」の歌詞に実は込められている、という伝承が以下のようなものなのです。


光秀の出身地、岐阜県可児市から天海の廟所、日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)大阪府岸和田市になる。というものです。



岸和田・本徳寺蔵「明智光秀」画像
 

また、光秀の墓と称するものは、他にも何箇所(滋賀県坂本、京都知恩院)かありますが、岐阜・旧美山地区のお墓にまつわる言い伝えは・・・

天正十年(1582年)山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、光秀の影武者「荒木山城守行信」だとしている。

光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えようと「荒深小五郎」と名乗り西洞(美山)の林間に庵を建てて住んでいたと言われている。

その後光秀は雲水の姿となって諸国遍歴にでたが十八年後の慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中、藪川の洪水で馬と共に押し流されおぼれ死んだ為、死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬したと伝えられている。

 以来この地には荒深姓が多く、今でも年二回(4月と12月)の供養祭を行っているそうです。 (地元出身の神道家・荒深道斎?説?)


美山武芸川で



岐阜洞戸坐禅道場IT担当

 
 

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